器用と来ればすかさず出てくる言葉こと「貧乏」。興味が広くどこでもそれなりにやっていける人であれば誰しもが貧乏であると言わんばかりによく使われる。個人的には語呂がいい以上の意味がないと思っているが、果たして器用な人間は本当に貧乏なのだろうか?
なまじ器用であるために、あちこちに手を出し、どれも中途半端となって大成しないこと。また、器用なために他人から便利がられてこき使われ、自分ではいっこうに大成しないこと。 三省堂 新明解四字熟語辞典より
まず明らかな指摘ポイントがいくつかある。
- あちこちに手を出し、どれも中途半端となって大成しないこと
これは単にタスクへの取り組み方・目標の設定の仕方・先の見通し方が下手くそなだけであり、人による。器用な人間の一般的特性というよりはもっと個人的な特性だろう。
- 器用なために他人から便利がられてこき使われ、自分ではいっこうに大成しないこと
それはどっちかというと「かわいそうなお人好し」であり、器用であることと必ずしも関係がない。
私の知り合いにも、いろんな業界でやってきた上で器用貧乏を自称する人がよくいる。ハッキリ言うと、器用貧乏は自称する人ほど貧乏ではない。よく聞いてみると、単に色々やってきたことを謙遜して「貧乏」と言っているだけというのが大概のケースだ。興味は幅広くありながら、それに従いきれるほどに器用であり、そうやって今まで生きてきた。彼らはもっとそれを誇るべきだ。
私はそういった自称器用貧乏の人たちが内に秘める柱を探し出し、それについて極力聴き出すようにしている。そうすると、彼らは安心したように表情を和らげて語ってくれる。「いろいろ見てきた」彼らが語り出すこのひとときの濃密さは格別だ。
トラディショナルな日本の価値観(クソデカ主語)では「一つのことをずっと継続したという事実」やら「職人技的なもの」やら「終身雇用」やらといった価値が賛美されがちなのは言うまでもない。これは皮肉でもなんでもない事実だ。だから、そういう価値観の屋根の下では、複数のことをあちこちでやっていた人は卑下「せざるを得ない」。そういった土壌から生じたのが器用貧乏という言葉の濫用であろう。
フルタイム勤務や落ち着いた仕事などとは縁遠い「器用貧乏」たちが、もっと胸を張って自らの器用さを語れるような日が来て欲しいと強く願う。