Zopfcode Essay

140文字で収まらない走り書きの置き場

いいコンピューターおじさんになりたい

僕は将来、「いいコンピューターおじさん」になりたい。いいというのは何を指しているか。わかりやすい話が、人当たりがよくて、インターネットでも人格者で、技術のことをよく知ってるけどおごらなくて、常に対等な視点で話してくれるおじさんだ。

人当たりが良くて、ネットでも人格者

人当たりが良いというのは抽象的な概念だ。表情、立ち居振る舞い、服装…などなど、総合評価になる。だから、自らの行動を常に客観的に見て、改善していく訓練を続けなければならない。

現実で話すといい人なのに、ネットだとイヤな感じの人は多い。自分も今はまだマシになったと信じたいが、学生のころは半分失言みたいな日本語を Twitter に吐露していた。そして後年見返して最悪な気分になり、ばっさり消した。2ch は半年 ROM れば良かったが、攻撃性を消し、どんな人にも変な解釈をされない倫理フィルターを育てるには5年以上かかった。人間というのは不思議で、どうも目の前に物理の人間がいないといろんなタガが外れがちになってしまうらしい。考えてみれば、口頭以外の方法で他人とコミュニケーションできるようになった期間など、人類の歴史からすると刹那にすぎないのだから、ある程度仕方ないのかもしれない。そうであったとしても、そこは理性と徳で抑えるのが現代のオトナというものだろう。その人の徳の地盤がどれだけ盤石かが、インターネットでは現れる。本当の人格者は、現実でもネットでも寡黙で思慮深い。残念ながら、適当に生きてても勝手にはそうならない。明示的に目指さないといけない。

技術のことをよく知ってるけどおごらない

僕がモデルとしている、高専時代のある情報系の先生がいる。現在は退官されて、当時は定年間近のまさしく「コンピューターおじさん」だった。コンピューターの歴史が関わってくるような、「おじさんなら知ってそうなこと」は、その先生に聞く事が多かった。

オーラすら感じる重鎮感。袖からさりげなく見えるカフリンクス。内に秘めたる Unix 愛。いつも静かな雰囲気。僕がひとたび質問すれば、BSD や Linux など分野を問わず、歴史的経緯と共にしっかり教えてくれた。「能ある鷹は爪を隠す」を超えて、まさしく人格者と呼べる振る舞いに、今でも思い出しては憧れる。

対等な視点で話してくれる

僕が初めてプログラミングをやったのは小3くらいの頃だ。当時はまさしく教えを必要としていたが、周囲にそれに答え/応えられる大人は一人もいなかった。結局そこから今の今まで、自力に自力を重ねて、なんとかやってきた。

特に小中学生の頃に不満だったのは、「子供にしてはすごい」という風に、技術もないのに明らかに下に見てくる大人たちだった。あの時、近所に「対等に話して本気で教えてくれる」大人がいれば自分はもっと…と思えてならない。

今自分が大人になって、たまに Scratch をやっている小学生に会ったりすると、何を頑張ったかを極力聞き出すようにしている。すると、じゃあこれはどうすればいいのと真っ直ぐな質問をしてくれたりする。そして僕もストレートで返す。そういう大人を欲していた自分と重ねながら。

これから

現在26歳の自分は、人生スケールではまだ若者に入る。といっても小中学生からすれば、26歳でも40歳でも60歳でも、大層な大人に映るという点では変わらないだろう。つまり、僕のコンピューターおじさん時代は既に始まっているのである。

とりあえず現在は、教えを欲していた地元の高校生に Python の本を買い与えて定期的に話したり、電子辞書をハックするコミュニティを作ってみたりと、年長者として役に立てそうなことを、互いに快い範囲で実施する練習をしている。

将来は電子工作や各種加工が可能なラボを設けて学生に自由に使ってもらい、併設したカフェでコーヒーをドリップしながら、たまに質問されたら教えてあげるくらいの、いいコンピューターおじさんになりたい。