半年くらい前だったか、親しい高専仲間数人でシーシャを吸いながら話していたときにふと気付いたことがある。「興味の先鋭化と取捨選択を繰り返した結果が自分たちの両親の姿なんじゃないか」。
話の流れというのはこうだ。『私達は成人してからの数年で、本当に興味のあるものとないもの、本当に必要なものとそうでないものを取捨選択すべきことに気付いた。ハタチ以前のときには興味があると思っていたものが案外そうでもなかったりして、それに気付いた上で手放すことに未練を感じなくなっている。現在進行形で続いているこれをずっと繰り返していくと、自分たちの親のような「興味を失ったおもしろくない大人」の感じに収束していくんじゃなかろうか』と。その場の数人ではおおむね同意が得られた。
字面に反して、「興味を失ったおもしろくない大人」に否定的ニュアンスはない。子供の頃にそう見えていたというだけだ。実際のところ、その初段を経験している今現在では、興味の対象が少ない方が生産的に思える。特に消費一般はめっきりと減った。テレビ番組・アニメ・映画・マンガなどマルチメディアの類は、極度に好きあるいは気になるものしか観ない。カフェにも遊園地にも行楽地にも行かないし、GoTo なんて一度もググッてすらいない*1。これらのたくさん減った消費の代わりに、本当に注目したいと思える事に割り当てる時間は増えた。実に8割はコンピューターを筆頭とする技術一般とものづくりで、残りは音楽と嗜好品(コーヒーや酒など)と人付き合いだ。
現在見えている取捨選択の基準は「何も理由がなくともそれを楽しみたい・掘り下げたいと思うか」に尽きる。この根源的で説明しがたい第六感ベースの欲求がなければ、逆にどうやっても持続しないこともわかった。興味を持たざる自分に気づき、それに従順なほうが QoL 向上を実感できるという発想は、25年以上生きてきたからようやく持てた視点だと思う。
ところで現在の自分と両親との差分に視点を移すと、子供や家族を養っているかという大きな差に瞬時に気付く。
二人暮らしならまだいい。子供が生まれれば、否が応でも相手をすることになるし、生活の多くを子育てに持っていかれる。その時まで楽しんでいたことの多くは手放すことになる。
これはある知り合いの談だ。上に挙げた自分の興味関心から優先度の低いものを削り落としていくと、嗜好の範囲は最小化し、手間のかかるものづくりは減り、ただでさえ少なかったマルチメディアの消費はさらに先鋭化していく。その先はまさしく親の姿だ。
この先子供が生まれれば、多分私もあのときの親のような「興味を失ったおもしろくない大人」…いや、「自ら興味を捨てることをあえて選択した大人」になるのだろう。
*1:もともと行楽地に行けて嬉しいという感覚が希薄であれば、後からお金が返ってくるこない以前にそもそも行楽地に行かないのが一番「お得」だ