Zopfcode Essay

140文字で収まらない走り書きの置き場

「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」

かつて拙作の OSS について DM で質問を送ってきて、以降たまに会話しているとあるウクライナ人の知り合いがいる。 初めての会話の時点で既にウクライナの苦境は始まっており、この緊迫した状況の中では Nintendo Switch でプレイするゲームが数少ない楽しみなのだと語っていた。

その彼が最近ウクライナ軍に加わったと本人のフィードで見かけ、戦慄が走った。心配が先にやってくるが、相手は文字通りの矢面に立とうとしている人物なのだから、士気を下げるような表現にならないよう気をつけながら、祈るコメントを送った。

「ありがとう、」と直後に DM が飛んできた。そしてこう続いた。「私達は選択できる。(戦地に)行かずに家に留まったり、徴兵検査から逃れたり、あるいは遠くへ逃れた人もいる。まあそういうわけで、戦地に行く人は少ないし、そもそも基礎訓練も待っている。人生というのはこれくらい厳しくないとね。」

私はその勇気ある選択へのリスペクトを述べつつ、最近思っていることとして「もしうちの国でひどい事が起きたら自分の能力がどう役に立つかを考えている。21世紀の戦いはたくさんの技術でできているし。」と送った。すると彼は簡潔に、以下の格言を引用した。

Si vis pacem, para bellum. (訳: 汝平和を欲さば、戦への備えをせよ

これ以上無く語るにふさわしい人物からの鋭い引用に、なんと返せばよいか、わからなくなってしまった。

個人的な思想を発信するわけでは一切ないが、我が国には、まるで「備える」ことは好戦的な印であるかのように、備えに対する議論を嫌う風潮があるように思う。一方で私達が現在目撃している状況と、それに備えなければならないという警告は、有史以降一貫して発されてきた*1。自分個人のスケールに話を狭めたとしても、脅威が海の向こうにごろごろいる現在の状況を認識しながら、はたして自分は全く丸腰でいて良いのだろうか。そして、いま自分が持っている技術は有事の対応に貢献できるのだろうか。いずれも自信を持って YES とは言いがたい。

キャリアとか人生設計とか、未来を描く大風呂敷の中に、自国が侵されるリスクを並べたことはこれまで一度もなかった。これを悔やむような事が今後起こらないことを願いたいが、願ったところでそうなるとは当然限らない。戦地に向かう知人から言い渡された言葉を前にして、物思いにふける夜となった。

*1:Wikipedia 曰く、紀元前500年ごろに編纂された兵法書の孫子には抑止に関する記述がある